8月20日です。今日は、私の誕生日でして。なんの自慢の無いのですが、私の中で、「俺、大大大好き高杉晋作さんと同じ誕生日なんだよねー。」というのが自慢というか、嬉しいというか、なんか「やりました」的な感じです。但し、高杉晋作さんは旧暦の8月20日なんですが、、、。でも8月20日生まれとはどこの書物にも書いてあるので、「よし」としています。ちなみに、天保10年8月20日生まれです。
この人、28年しか生きていないのです。短命な坂本龍馬さんが31年生きていますので、高杉さんはそれよりも3年短いのです。「薩摩に西郷あり」と言われていたわけですが、高杉さんが、もし、長く生きていたとしたら、「薩摩の西郷、長州の高杉」と言われ、幕末の英傑を2分していたに違いないと思っています。(意見には個人差があります。)
西郷さんは「敬天愛人」を絵に書いたような人で、地味で真面目で質素に暮らす人だったと。そんな人なので、薩摩の人たち全てから信頼される人だったと。そして、身分に関係なく、人の話を何時間でも聞き、時に涙を流すような人だったと言われています。いつも、戦いの時は本陣にどっかり座り軍を掌握しているような。戦国時代なら武田信玄のような。(意見には個人差があります。)
一方、高杉さんは、その真反対のような人で、粋でシャレのきいた人で、目から鼻に抜けるような頭にいい人で、天才的なアイデアマンで常に人の先頭に立って動く人だったようです。単独で神出鬼没で、みんなをあっと驚かすようなことを次々と引き起こす。戦いの時も部下を引っ張り最前線で戦う。戦国時代なら上杉謙信のような。(意見には個人差があります。)
こんな対照的な2人です。このブログを読むWJUの職員は、「ああ、なるほど。」と思うはずです。みんな「本間さんは西郷どんじゃなく、高杉さんが好きだわ。」と。そうです。私は、圧倒的に高杉さんが好きなんです。
歴史的な役割から言えば、高杉さんが居なかったら、江戸幕府は、もう少し長く続いて居たかもしれません。なぜなら、もし、彼が居なければ、第二次長州征伐で長州藩は滅びていたと思いますし、そうなれば、次は薩摩藩がターゲットで、薩摩だけでは勝てたかどうか。(意見には個人差があります。)
第二次長州征伐は凄いんですよ。幕府軍は15万人です。では、長州藩の兵力はどれくらいだったと思います。たったの3500人足らず。しかも、幕府は四方から一斉に攻め込みます。なんで、3500人をいくつにも分けて戦うことを強いられたわけで、誰もが「無謀な戦い」と言ったのは分かります。有名は芸州口の戦いは、幕府軍5万人に対し長州軍千人です。絶対に勝ち目がないわけですが、勝ったのは長州軍でした。
戦いの最中に将軍家茂が病死します。戦いは終わります。勝ったのは3500人の長州藩でした。結果、たった一藩に負けた幕府は、一気に瓦解してゆきます。ここで面白いのが、長州藩勝利の決め手になったミニエー銃を送ったのが西郷さんで、用立てて薩摩に売ったのが坂本龍馬率いる亀山社中でした。
こんなまともじゃない戦いに、長州藩はどうやって勝ったかですか?
長州藩は、戦略:「銃撃戦で勝つ。刀を使った白兵戦はしない。」と「海軍で勝つ。」。戦術:「幕府のゲーベル銃の射程外から射程の長いミニエー銃で相手の鉄砲隊を叩く。」と「海軍を機動的に操り制海権を掌握する。」。
そうです、圧倒的に武器が違ったんです。
それと、幕府には大義も団結力もなく、戦争経験もなく、そもそもやる気がない。しまいには、将軍家茂まで病死してしまう。なんで、長州藩は勝つべくして勝ち、幕府は負けるべくして負けたわけです。(意見には個人差があります。)
しかし、我が愛しの高杉さんはこの時には、不治の病である労咳(ろうがい)に冒されていました。たった28年の人生とはあまりにも短い。
ただただ、残念です。もし、長く生きていたら、何を考えて、何をしていたことか。多分、政治家になって活躍していたことでしょうね。初代総理は伊藤さんではなく高杉さんだったのではないかと思っています。(意見には個人差があります。)
ちなみに、高杉さんは、尊敬する吉田松陰先生の愛弟子で、松下村塾では世界地図を見たはずです。見れば、日本が危ないということは直ぐに分かったはずです。
もう、この年齢になると、誕生日は全く嬉しくなく、がっかりするだけの日なんですが、高杉晋作さんと同じ誕生日という特別な日であることは確かです。
高杉さんの言葉:「おもしろきこともなき世を面白く。」