このブログをお読みの皆さんには、分け隔てなく、時期が来るのです、きっと。

富士フィルムのHPから

ヒストリー・オブ・フジフィルム

写真フィルム国産化を目指してスタートした富士写真フイルムの歴史は「苦悩」と「果敢なチャレンジ」が交錯するスリリングな歴史であった。このコーナーでは、いかにして苦悩を脱したのか?不撓不屈の精神とは?・・・当時の懐かしい写真とともに、その足跡がご覧いただけます。

 

今日も、番頭塾の皆さんにお話ししました。「ねえ、トヨタ自動車は、元何屋さん? 富士通は何の会社からのスピンアウト? じゃあ、富士フィルムは、今もカメラのフィルムを作ってる? 写ルンですを買ったことある?」

以下、何度も申し訳ありません。

 

世の中にデジカメが現れたのは、2000年です。今では、当たり前にようにスマホで気軽に画像を取り込んでますが、私は、初めてデジカメを見たときの驚きを今でも覚えています。それまでは、1時間で写真にしますってお店に写るんですでとっていたので。

さて、デジカメの登場とともにフィルムのマーケットは劇的に縮小します。2000年を100とすると、ほぼ10年で、90%減になったのです。この需要の減少とともに事業が縮小したのです、イーストマン・コダックは。なんと、デジカメを開発したのは、当のコダック自身だった。信じられないことに、デジカメの時代が来ると予見しながら、「津波が来るのを目の当たりにして何も打つ手がない状態」と言われるほど何もしていない。あまりの成功体験が変化することを阻んだ。経営者もコロコロ変わり、会社のことを長いスパンで考える人がいなかった。変わる勇気のある経営者がいたとしたら、結果は変わっていたかもしれないですね。

 

しかし、富士フィルムは違いました。まず、富士フィルムは、経営者を交代させた。なぜなら、主力のフィルム事業の売上が2750億円から激減するのは見えていたので、新しい価値観が必要となった。結果として、フィルム事業の売上が2750億円から300億円に10年で激減することになる。

新しい経営者は、社員に対してこう話をした。「車が売れなくなったトヨタ自動車を想像してほしい。」と。この新しい経営者は変化を恐れず、大胆だった。社長は40社を買収に90億ドルをつぎ込み、第二創業と呼べるほどの勢いで改革を進め、1年半で2500億円をかけて社内を大再編。事業は、2000ものフィルム用化学物質の技術を使って医療、LCD、半導体、ITの会社になることで生き残った。例えば、2000年に売上高280億円(2%)だったLCD用の「タックフィルム」は、2010年には2300億円(10%)に成長させた。このLCD用フィルムは世界シェア70%を占めているとされている。

 

富士フイルムの成功は、「企業とは変化対応業である。」ということを理解させる。

 

そして、「経営者は、けっして人のせいにせず、すべての責任を負い、大胆に勝負する。」を貫いた結果といえる。経営者は、かくありたいものです。富士フィルムは、デジカメが市場を席巻し始めた2000年から社内変革を進め、翌年から大幅に売上を伸ばします。ここからの躍進は素晴らしく、コダックが1兆5000億円から4000億円に急下降するとは反対に、2000年1兆円だったものが2010年には2兆3000億円と2.3倍にするほどでした。

経営者で、これだけ変わるのが企業です。

多くのビジネススクールではクコダックの崩壊は、ケーススタディーで使われます。そこでは、「経営陣が心地良い椅子で居眠りしていた。」と言われています。

 

今、日本は、すべての産業が同じような大変革期を経験しているのだと理解しています。① IT、ICT、AI などのイノベーション、② 急激な少子高齢化社会、③ 日本人のライフスタイルの変化。

「今は、すべての業界で、変化を求められる経営者の時代です。経営者の方にこんな会社もある、やればできると考えていただければ幸いです。」

 

 

(2017年11月24日より)

フィルムの巨人Kodakの崩壊と富士フィルムの躍進から何を学ぶべきか? ①

この仕事をしていると、医療法人・社会福祉法人・株式会社のみなさんに、経営を考える題材として、何がいいかを考えます。その時に一番のケーススタディになるのは、富士フィルムという会社です。パラダイムシフトの中で、生き残るだけではなく、地獄の口が開いた時に、それを土台として飛躍するというマジックのようなことをやってのけた会社です。英雄がいれば引き立て役がいるもので、その役をするのが、フィルムの巨人、イーストマン・コダック社です。世界のシェアを抑えていたコダックは、2012年1月に倒産します。

10年前までフィルムの世界シェア No.1だった会社が10年で倒産するのです。こんなことが理解できるでしょうか? なぜなら、2001年まで、フィルムのマーケットは、年率 5%程度成長していたからです。

では、何が、世界NO.1の会社を滅ぼし、後塵を拝していた富士フィルムが苦境をバネに躍進したのでしょうか? 

結論は、経営者の違いであり、社員の違いです。

富士フィルムは、まさに劇的に変化するマーケットに、社内を大変革し、フィルム中心の事業を、医療、LCD、半導体、ITの会社に変えたのです。私が一番感銘を受けるのは、経営者の強い決意です。この経営者は、「変化を恐れず、自法人の強みを生かし新しい分野に挑戦する」信じられないほど過酷なマーケットに果敢に挑んだ歴史です。

富士フィルムのHPには、以下のように書かれています。「写真フィルム国産化を目指してスタートした富士写真フイルムの歴史は『苦悩』と『果敢なチャレンジ』が交錯するスリリングな歴史であった」と。

みなさんは、樹木希林と岸本加世子の富士フィルムの宣伝をおぼろげながら覚えていると思います。「写ルンです」です。しかし、今の富士フィルムのテレビ宣伝は、医療関係の新製品のCMをご覧になるはずです。

医療・福祉の経営者の方にお伝えしたいのは、「医療・介護・障がいの各事業は、大きな大変革期を迎えています。勝ち残る法人は、気合と根性ではなく、冷静に自法人のドミナントを分析し、変化を恐れず、果敢に挑戦することが求められています。」

今は、戦国時代の幕開けです。もはや、室町幕府に統治する力はありません。戦国大名が地域を支配する時代の始まりです。これからは、知恵と勇気とマネジメントが勝負です。

そして、戦国時代が終わってしまえば、もうチャンスはありません。仙台の伊達政宗をみれば分かります。もし、政宗が20年早く生まれていたら、果たして徳川幕府があったかどうか分からないと言われています。

では、もう少し、富士フィルムの変革の歴史をみてみましょう。

と、思いましたが、時間切れです。

続く、、、。