帰りに海老名駅まで向かうとき、中嶋さんが、「ありました!あれ!」と言うので、バスの停留所を見たら、根恩馬という停留所が。

今日は、初めて伺う法人に、本厚木駅から、WJUコンサルタントの中嶋さんの車で向かいました。中嶋さんに「本間一族のルーツは、ここら辺なんだよね。海老名市に恩馬って地名ない?」というと、地元の中嶋さんは「知らないです。」と。「そう。」と。

帰りに海老名駅まで向かうとき、中嶋さんが、「ありました!あれ!」と言うので、バスの停留所を見たら、根恩馬という停留所が。私は思わず「ああ、田舎じゃん。」と。そして、「そうか、ここかー。」と。

プチ感動でした。どうなるかは分かりませんが、今日は、良い日だな。

厚木郷土博物館の資料より

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、相模国恩馬郷本間村を名字の地とし、依知郷を領有した本間氏の活躍が多く見られます。 本間資貞(永仁5年(1297)~元弘3/正慶2年(1333))と資忠(正和5年(1316)~元弘3/正慶2年(1333))父子は、元弘3/正慶2年2月に北条方として楠木正成が守る河内国赤坂城を攻めました。

 北条方が大軍を動員した赤坂城攻めは、従軍した幕府官吏の手による「楠木合戦注文」に詳しく記され、戦況とともに正確な死傷者の数が把握できる貴重な資料となっています。その中で、本間一族は又太郎・与三兄弟が先陣を務め、城戸を3つ破ったものの4つ目で負傷して後退、この際に資貞・資忠父子をはじめ100人余りが討ちとられてしまいました。

資貞・資忠父子の討死は、『太平記』巻6「赤坂合戦事付人見本間抜駆事」のモデルとなり、「父子ノ恩義、君臣ノ忠貞」として、その奮戦が描かれています。 赤坂城の戦いから3ヶ月後の元弘3/正慶2年5月21日(1333年7月11日)、稲村ケ崎を抜け、極楽寺坂を越えて新田義貞の軍勢が鎌倉に突入すると、翌22日、鎌倉北条家最後の得宗高時は、東勝寺で一族とともに自害、150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。 鎌倉幕府滅亡後、多くの武士は新たに成立した建武新政府に従いましたが、渋谷氏や本間氏など北条氏恩顧の武士は抵抗を続けました。

別の資料より

大仏氏は北条氏の一族であるが、本間氏は大仏氏に被官しており、依知(えち)の出身と言われている。昔は、愛甲郡依知村と呼ばれていた。現在の厚木市金田、下依知、中依知、上依知がその地域と考えられる。
このうち金田には本間屋敷というものが残っている。中津川に面した段丘縁に一万坪とも言われる屋敷があり、土塁が巡らされていた。この土手を「本間土手」と呼んでいた。今、屋敷地内の一部に日蓮宗妙純寺が建っている。
また、上依知の日蓮宗妙伝寺境内は本間重連(しげつら)の館址伝えられ、下屋敷という地名をもち、日蓮を預かったのはこの地だと言っているという。(日蓮上人の項参照)
「厚木中世史話」では、「本間氏は相模国高座郡海老名郷に住する。海老名源八季定の次男、右馬允能忠は、海老名の郷の南部、高座郡恩馬郷に分家して本間氏を姓とした。この本間能忠を立家の祖としたのちに、愛甲郡依知の郷に移り住んだ」と書かれてある。