2011.3.11から10年です。
本当に、3.11は、映画のような、どこか現実離れしたような、そんな日々でした。当日、靖国神社の前のビルで、15:00から始まるセミナーの講師をする予定で控室にいました。
突然の激震。もちろん、中止で、外に出て、、、外は、カオスでした。窓から火が出ているような風景が見えました。階数が高かったので、東京湾の方でした。
まずやったことは、空いているお店で食事しようと。路上は、人で溢れていて、お店は人を外に出していました。でも、1軒だけ、牛丼屋さんがなぜかやってまして、3人で入って、大盛り牛丼を食べたのです。なぜやっていたか? みんな閉めたのに。働く人が全員外国人だったのです。
自動販売機でチケット買って、普通に水が出て、とにかくに食べました。お陰で、11時に昼食食べて4時に牛丼の大盛り食べたので、その日はお腹もすかず。
次に、コンビニに入って、雨も降っていないのに傘を買いました。それと、水とチョコレートと。
会社のある新宿まで歩きました。1時間半くらいですかね。
会社は32階で、川口の人間には、「5時間歩けば着くから、気をつけてな。」と言って別れました。彼は、小さな子供2人を連れて困っていた親子づれと一緒に埼玉まで帰ったそうです。子供に声をかけながら。
私と、今、WJUの専務をしている鈴木くんと2人で32階に上がり、事務所にいた20人くらいを集め「こういう状況だ。これからコンビニに行って、食べ物を買って来るから。一緒に行ってくれる人は来てほしい。」と言って、4人だったかローソンに。
新宿センタービルのローソンは広いのですが、もう、食べ物が少なく。でも、買えるだけ買って、また32階へ。
また全員を集め、「好きなものを持って行っていいから。ここに篭城する人間はすればいい。歩いて帰る人は歩きながら食べられるものを持って行きなさい。」と。
「うちの人間は、全員どこにいる?」。
「OOさん、今日、仙台です。」。
「連絡が取れてて、生きています。」。
連絡をとり「ホテルに向って下さい。」「いえ、ホテルは閉鎖です。仙台駅に一番近い小学校にいます。」「わかりました。気をつけて。ご家族は連絡取れましたか?」「はい、全員無事です。」「当分、仙台ですね。」「はい、頑張ります。」
ここから、報道で、「未確認ですが、大きな津波が街を遅い、OO町では、少なくとも百人以上の遺体が確認できる模様。」と。
原発事故の話が入り「これは大変なことになったかも、、」と言いながら、事務所で待機。
夜遅く、電車が動いたとかで、少しずつ帰り始めました。夜中の1時くらいには、私も帰りました。
今、思い出せる、2011年3月11日です。