今、こんな報告書を書いてます。ホント、難しいところですね。優秀な経営者さんは、これが直感的に理解できて動けるんです。座り心地のいい椅子に座って寝ている経営者には、容赦がないでしょうね。
サマリーの書き出しが、こんな感じなんです。
「社会福祉法人OOOO(以下、法人)は、まさに時代の過度期に差し掛かった法人であると判断する。法人が次に掲げる戦略によって、大きく成長することも可能性がある。しかし、戦略の方向性を間違えれば赤字に転落し、成長する法人に戻すためには大きなまわり道を必要とすると考える。ゆえに、次の戦略が、法人の次の10年、20年、50年を決める、極めて大事な経営判断の時期を迎えていると考える必要があると結論する。」
「経営者は今までの成功は、終わったものだと自覚し、新しい価値観を持た持たなければならない。なぜ、このような結論に至ったか説明する。」
この報告書が経営者に伝わるといいですね。
本当に、次の一手で、全く、違う未来が待っています。私は、2016年からセミナーがあるごとに「これからの5年は経営者の時代です。この5年間は遊んでなんかいられませんよ。仕事だけしてくださいね。」とお話ししています。
なぜか? 医療と福祉は、チャンスとピンチが背中合わせのスリリングなマーケットなんです。
本当にスリリングです。こういう時代の変わり目には、新しいヒーローがあらわれます。お公家さんは没落してゆきますかね。荘園領主でございます的な。世はまさに戦国時代に、「もう、なりましたよ。来る来るではなく、始まってますよ。」と。
11月2日のHMSセミナーを皮切りに、お話しして行こうと思います
(2017年8月4日のブログから)
佐渡の本間家は、どこかで間違ってしまったのか、これで良かったのか、、、、
「本間さんって名字の人、関西はいませんよね? 本間って名字はどこに多いんですか?」との問いに、「本間は、新潟、北海道、山形に多いんです。うちの一族は佐渡の本間です。それでは、佐渡の本間一族についてお話ししましょう。」「佐渡の本間は鎌倉時代に始まり戦国末期には佐渡本間十三家と呼ばれいました。随分と栄えたんですが、しかし、いわゆる佐渡合戦でたった2週間で、上杉景勝、直江兼続に滅ぼされた一族なんです。だから、有名な酒田の本間さんとは親戚ですが違うんですよ。出は京都で一緒でしたが、播磨、相模と移ってきて、そこで別れたんです。私の本間家は、相模の国で坂東武者として活躍したのでしょうね、そこから、佐渡、酒田、駿河、武蔵に領地を拡げていったようです。うちの本間家は、神奈川県の海老名市あたりに本拠地がありました。駿河、武蔵にも別れた一族は、のちに、今川、北条、徳川にも仕えています。徳川幕府の旗本八万騎にも本間家があります。そして東北に移った本家が酒田の本間さんです。」
「私の本間家ですが、相模の国衆になったあと、源の頼朝に仕え、戦(いくさ)の日々の中で武功を立てていったのでしょう。鎌倉幕府が始まった頃、越後と佐渡は源の頼朝の領地で、次に大仏北条家の領地となった。本間家は大仏北条家の被官であったが、その実力が認められ、佐渡の管理者として島に渡り、雑太城を拠点として佐渡島を統治してゆきました。その後、時代は移り、北条氏が滅亡し、足利尊氏に佐渡の安堵状をもらい守護代として佐渡で勢力の伸ばしてゆき、家が栄えた室町後期には佐渡本間十三家となったのです。」
「本間のはじまりは、嘘か真実かは知りませんが、村上天皇の四男為平親王を祖して始まったと言われています。母親は藤原摂家の姫と伝わっています。だから、元は臣籍降下の時に源をいただいて播磨に領地をいただいた村上源氏の子孫です。源氏ですね。」「本間の家系図を調べて本にしている人がいるんです。いろんな家系図が存在していますが、源の為平から8代くらいあとに源の季定(すえさだ)という人がいて、その人に5人の男子ができた。それぞれ、長男が宗家を継ぎ、次男が本間を名乗り、三男が国分を名乗り、四男が海老名を名乗り、五男が萩野という性になったいう系図があります。次男の名前が能忠(よしただ)。本間能忠が佐渡の本間家の祖となるのです。ただし、諸説あるので、どれが本当かはわかりませんがね。」
「佐渡に渡って400年、佐渡の本間家には過酷な戦国乱世の運命が待っているんです。時は天正17年(1582年)、関ヶ原の8年前、越後の上杉景勝が佐渡に侵攻しました。海を渡った兵の数は約6800。迎え撃つ本間家の兵約600。400年続いた佐渡本間家はたった2週間の戦(いくさ)で滅び去ることになります。佐渡本間十三家は瓦解し、佐渡で上杉に仕えるもの越後に移り住むものなど命のタスキを懸命に繋ぎます。もし、佐渡の本間家が滅びていなければ、全国に本間の名字はもう少し多かったかもしれません。」「この戦(いくさ)で上杉が徹底して滅ぼしたかったのは、佐渡本間家の宗家、羽茂本間家でした。羽茂本間家は一族ことごとく討ち取られら、生き残ったものは一人もいなかったと言い伝えられています。こんなこともあったと伝えられています。上杉軍に蹂躙された時、船で羽茂本間家の一族郎党が島を脱出、越後の浜についた時、女、子供を含め、まちぶせていた上杉勢にことごとく首を刎ねられた。いわゆる根絶やしです。戦国乱世は過酷ですね。」
「元々、この戦(いくさ)は、豊臣秀吉が上杉に命じて、佐渡の金山を押さえようとしたのがはじまりです。しかし、佐渡は海流が早く、簡単には多くの兵を渡すことができない。だから、そう簡単には落ちないはずでした。なんで、400年も島を納めてきたわけですが。では、なぜ滅びたか。理由は裏切り者です。荒波を佐渡まで渡らせた裏切り者が出たんです。ちょうど、このごろ、佐渡本間宗家の権力争いが起こっていました。佐渡本間十三家の宗家は羽茂本間家でしたが、その座を狙ったのが河原田本間家です。上杉家の家老直江兼続に、ここにつけこまれた、、。河原田本間家は、上杉を使って宿願を果たします。しかし、、、戦勝の宴席で毒を盛られて討たれるのです。直江兼続は、居並ぶ佐渡の国衆に叫んだことでしょう。「太閤秀吉様に抗う者は容赦はせぬ!裏切る者は、この直江山城守が捨ておかぬ!そう心得よ!」と。この一瞬で、上杉の佐渡侵攻の正当性と統治の姿勢を佐渡の国中に伝えたことでしょう。これから関ヶ原までは、直江兼続が佐渡を治めることとなったのです。」
「佐渡は、ここから、上杉の統治になり、関ヶ原の後は徳川の直轄領となります。戊辰戦争を経て明治になり、廃藩置県を経て佐渡は新潟県になりました。佐渡の本間家の末裔は、佐渡、新潟、東北に多くの子孫を残したのです。」
「こんな話もあるんです。一人残らず根絶やしされたと言われている羽茂本間家の末裔が生きている。理由は皆殺しの時に嫡男を2人の郎党が命からがら山に逃げ込み血をつないだと。その子孫が生きていて、その代々の長男は、明治に入ってからも、毎朝、景勝を呪って、藁人形に釘を打つ儀式が義務付けられていたそうです。これは、本当の話です。」
「こんな話もあるんです。本間家と一緒に相模の国衆の流れをくむ渋谷家があり、その一族から薩摩の国に遷住した人たちがいました。その中から、私が尊敬する日本海会戦で活躍した東郷平八郎氏が出たんです。歴史、系図とは面白い話が沢山あるんです。とても嬉しいこぼれ話です。」
「本間家のルーツの話から、『だから歴史の授業を勉強する』という意味がわかるところがあります。地域(ドミナント)を読むマネジメント力、時代を見通すマネジメント力、一族を結束させるマネジメント力が必要で、これは今の時代にも必要なことだと考えます。賢人は歴史から学び、凡人は経験から学ぶ。です。」
「ちなみに、名字の人口順位は183位。人口は約11万人です。」