こんな時なんで、参考になれば。(1)

逸話「ほとけの中村」と言われた中村明人さん(2018年10月)

中村明人は、大日本帝国陸軍の軍人でありタイ王国の駐屯軍司令官だった人です。

戦時中、日本とタイは同盟国でした。しかし、戦況が不利になると、状況は一変します。そんな状況の中、中村さんは司令官につきます。当時、タイには抗日組織がありました。戦況が不利になると、厳しい締め付けが行われるもので、軍人が武力で統治することを考えがちです。

しかし、司令官である、中村中将は「戦争は一時的なごと。長い目で日本とタイ関係を見ると相互に戦争や占領という汚点は残すべきでない。」として強硬派を抑えます。結果、戦争終結まで血が流れることなく、戦後も日本とタイの良好な関係は続くのです。

戦後、中村さんはA級戦犯として巣鴨プリズンに送られます。しかし、釈放されます。その後、企業人としてご活躍されるのです。

優秀な人は見えているものが違うのです。中村さんには、今を見ていながら、日本とタイの50年後100年後が見えていたのです。

今も大事ですが、5年10年50年後もちゃんと見るのが経営者や管理職なんでしょうね。

 

 

「広島カープを誇りに思う。⑵ 」 鉄人、かつ、人格者 衣笠祥雄さんの逸話。そして、広島カープのDNAの話。(2108年4月)

人格者 衣笠祥雄さんの逸話です。この人の話は事欠きません。いつも、かくありたいものだと思わせてくれるプロフェッショナルであり人格者です。

衣笠祥雄さんはずっと成功した野球人ではありません。入団当初は、強打強肩のキャッチャーでした。しかし、入団早々、肩を壊します。あっと、いう間に引退の危機に。

まだ、若かった衣笠さんは荒れていたそうです。見かねたスカウトの木庭さんが「このままじゃダメになる。真剣に野球に取り組め。」と諭したと言われるほどです。肩を壊した衣笠さんに一塁転向を進めたのが根本さん(西武の黄金時代をマネジメントした人)で、コーチしたのが広岡さんと関根さんです。この3人の名前を聞くと、我々の年代は、「おっっ。」となります。

衣笠さんは、フルスイングで知られるほど身体能力に優れ、強靭な肉体を持っていました。その肉体にも増してすごいのが、試合が終わった宿舎でも、部屋でバットを夜中まで降り続けるほどの努力を怠らなかった人だということです。

 

そして、プロフェッショナルな人だというだけではなく、人格者として大変優秀な人でした。衣笠さんを悪くいう人はいません。

こんな逸話があります。私も子供のころにリアルタイムでこの場面をテレビ見てましたので、覚えています。その頃、衣笠さんは、連続出場記録を続けていました。そんな選手に巨人の西本投手が、あろうことか意識しすぎたあまり、まともに背中にデッドボールをしてしまいます。もんどり打って倒れます。左肩の骨折です。球場は騒然とし、乱闘になりました。「連続出場記録のかかった選手になにするんだ!」「うちの衣笠にわざと当てたな!」と。

そんなとき、衣笠さんは「怪我するぞ、おれは大丈夫だからピッチャーはベンチにいろ。」と必死に声をかけました。普通なら激昂するところ、まだ若かったピッチャーの西本投手を思いもみ合いの中、必死に近づき声をかけたのです。

翌日、衣笠さんが代打で登場します。もちろん、骨折しているわけですから試合に出れる状態ではありません。しかし、江川投手の豪速球の3球ともフルスイングします。当然、三振するわけですが、のちに、そのときのことを「1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は西本投手のため、全力でフルスイングした。」と語ったと言われています。

かくのごとくありたいものです。

広島カープには、そういう選手が多いと言われています。広島カープのDNAです。